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      <title>モンゴル建国　チンギスハーンのすべて</title>
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      <description>モンゴルを建国したチンギスハーンについて様々情報を掲載しています。2006年はモンゴル建国８００年の記念となる年です。
また、反町隆史主演で「蒼き狼」でチンギス・ハーン役として、モンゴル伝説の英雄チンギス・ハーンの生涯を描く映画「蒼き狼〜地果て海尽きるまで〜」（沢井信一郎監督）が来春２００７年3月に公開されてます。
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      <language>ja</language>
      <copyright>Copyright 2010</copyright>
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         <title>チンギス・ハーンに関する同時代史料</title>
         <description>私たちはチンギス・ハーンについて幾つかの文献史料を通して知ることができる。それはそれぞれの書き手の立場や背景に応じて内容を異にしており、これまで多くの人がその差異を研究してきた。

ここまでも『元朝秘史』、『集史』、『元史』、『東方見聞録』などといった史料にあるエピソードを取り上げてきたが、こうした同時代に書かれた史料は謎に包まれたチンギス・ハーンの一生に関してある程度の光を投げかけてくれている。

これからこの4つの史料がそれぞれどういう性格のものなのか記述していきたい。
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         <category>35チンギス・ハーンに関する同時代史料</category>
         <pubDate>Wed, 18 Oct 2006 19:32:09 +0900</pubDate>
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         <title>『元朝秘史』</title>
         <description>『元朝秘史』はチンギス・ハーンの一生を扱ったモンゴルの伝説的な歴史書である。オゴデイの即位式で読み上げられたチンギス・ハーンの一代記がその原型とも言われている。

その内容はモンゴル族の起こりに関する伝説からチンギス・ハーンの一生、オゴデイ・ハーンの即位と治世までを扱っている。

この史料は書き終えられた年代などは分かっていないが、明朝の史官がモンゴル語原典を漢字で音訳し、個々の語彙に訳語をあて、かつ一節ごとに訳文を付し『元朝秘史』と名付けたと言われている。
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         <category>35チンギス・ハーンに関する同時代史料</category>
         <pubDate>Wed, 18 Oct 2006 19:31:22 +0900</pubDate>
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         <title>『集史』</title>
         <description>『集史』はイル・ハン国代７代君主ガザン・ハン、同８代君主オルジェイト・ハンに宰相として仕えた、ラシード・アッディーンによって編纂された歴史書である。

ラシードは宰相としてガザン・ハンの改革を助け大きな功績をあげるかたわら、西暦1300年にモンゴルの歴史を編纂するよう命ぜられ10年かけてそれを完成させた。

ラシードはオルジェイト・ハンが亡くなるとオルジェイト・ハン殺害の疑いをかけられて処刑されるが、彼が著した『集史』は、ペルシア文学の最高傑作とも称される名著である。
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         <category>35チンギス・ハーンに関する同時代史料</category>
         <pubDate>Wed, 18 Oct 2006 19:30:52 +0900</pubDate>
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         <title>『元史』</title>
         <description>『元史』は明の洪武帝の命により宋濂、高啓らによって編纂された元朝について扱った歴史書で、二十四史の一つである。

『元史』は編纂を開始してからわずか1年半という短い時間で完成されたため杜撰という評価を受けている。

スブタイ（スベエデイ）という１人の人物の伝記を速不台と雪不台という別々の人物の項目に分けて収録してしまうなど、何かと問題の多い史料である。このように『元史』は評判が悪かったため、20世紀に入ってから『新元史』が編纂されるに至った。
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         <category>35チンギス・ハーンに関する同時代史料</category>
         <pubDate>Wed, 18 Oct 2006 19:29:04 +0900</pubDate>
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         <title>チンギス・ハーンの死（１）</title>
         <description>チンギス・ハーンは西暦1226年秋に最後の遠征となる西夏征伐に向かった。チンギス・ハーンに率いられたモンゴル軍は連戦連勝でついには黒水城（カラホト）も激しい抵抗の末陥落させると、西夏の主要都市は次々降伏し西夏王は和議を求めてきた。

この遠征の最中にチンギス・ハーンは巻き狩りを行なったが、その途中彼は落馬し、大怪我を負ってしまった。そしてそれがもとで西暦1227年大帝国の創設者一代の英雄チンギス・ハーンは六盤山の本営でついにその一生を閉じたのである。
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         <category>30チンギス・ハーンの死</category>
         <pubDate>Wed, 18 Oct 2006 19:28:26 +0900</pubDate>
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         <title>チンギス・ハーンの死（２）</title>
         <description>チンギス・ハーンが死ぬと後に残された人々は彼の死を秘したままその遺名に従い、西夏を滅ぼした後遺骸を携えてモンゴル高原へ帰還した。

そして遺体を埋葬することとなったが、実はチンギス・ハーンの墓所がどこであるかは現在に至るまで分かっていないのである。

『集史』や『東方見聞録』によると墓所へ向かうチンギス・ハーンの柩を携えた行列は、その途上で見かけたすべての人間を殺して進んでいったということを伝えている。チンギス・ハーンの墓所の位置はそれほど重大な秘密だったのである。</description>
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         <category>30チンギス・ハーンの死</category>
         <pubDate>Wed, 18 Oct 2006 19:27:25 +0900</pubDate>
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         <title>チンギス・ハーンの後継者問題（１）</title>
         <description>『元朝秘史』によるとチンギス・ハーンはホラズム遠征に出かける直前、イェスイ妃の言を容れて後継者問題を話し合っている。この時点で後継者候補として目されている正后ボルテの子どもは4人、上からジュチ（ジョチ）、チャガタイ、オゴデイ（ウゲデイ）、トゥルイ（トルイ）であり、チンギス・ハーンはこの4人を呼び寄せてともにこの問題を話し合ったのである。チンギス・ハーンにはこの4人以外にも男子がいるが、後継者候補とされることはなかった。

チンギス・ハーンは子どもたちを呼び寄せると早速長男ジュチに意見を求めた。するとジュチが答えるより早くチャガタイが口を挟み、ジュチの出生の疑惑に関することを持ち出してジュチは後継者にふさわしくないと言い出したためにジュチとチャガタイは激しい口論を巻き起こした。その後なだめられるとチャガタイは後継者としてオゴデイを推挙し、ジュチもそれに賛同した。意見を訊かれるとオゴデイはもちろんトゥルイもこの提案を受け入れたのでこの場ではオゴデイが後継者として定まったのである。
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         <category>25チンギス・ハーンの後継者問題</category>
         <pubDate>Wed, 18 Oct 2006 19:26:35 +0900</pubDate>
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         <title>チンギス・ハーンの後継者問題（２）</title>
         <description>ホラズム遠征前にはオゴデイと決したチンギス・ハーンの後継者問題であるが、実際にチンギス・ハーンが死去すると状況は微妙なものとなる。モンゴル民族には長子ではなく末子が家督を相続するという風習があったからである。その風習に従い末子トゥルイがチンギス・ハーンの持っていた領土と全軍を引き継いでいた。このときトゥルイが引き継いだ軍隊は全モンゴル軍の8割弱にあたるほどの兵力であり、さらに監国として政務を代行しており、トゥルイが後継者として有力視されるようになっていたのである。

そのような中で西暦1229年秋、後継者を決めるクリルタイが開かれた。まず大宴会が行なわれた後、本題である後継者を決める話し合いが行なわれた。その席でオゴデイは謙譲の美徳を示すためのポーズとしてかトゥルイの軍事力を警戒してかチンギス・ハーンの後継者となることを辞退している。『元史』によるとこのとき耶律楚材がチャガタイやトゥルイを説いてチンギス・ハーン在世中に決まっていた通りオゴデイを後継者とするように促したことになっている。それを受けてチャガタイがオゴデイを指示し後継者はオゴデイと正式に決まったのである。

44歳のオゴデイはついに大モンゴル帝国第２代君主として即位した。オゴデイが即位するとトゥルイは自らの持っていた大軍団の指揮権をオゴデイに譲り、自分はその配下の一将に甘んじている。トゥルイは金を破る大功を立てた後40代の若さで急死してしまうが、『元朝秘史』、『集史』、『元史』などの史料は、トゥルイが病となったオゴデイの身代わりとして死んだというエピソードを伝えている。オゴデイの死後はオゴデイの息子グユクが後を継ぐが、その後はモンケ、クビライとトゥルイの息子が君主となっている。
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         <category>25チンギス・ハーンの後継者問題</category>
         <pubDate>Wed, 18 Oct 2006 19:25:13 +0900</pubDate>
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         <title>チンギス・ハーンと長春真人</title>
         <description>長春真人は道教の一派、全真教の道士である。本名は丘処機、字は通密という。西暦1148年棲霞県の農家に生まれ19歳のときに道士となり、翌年全真教の祖師王重陽のもとに弟子入りして「長春子」という道号を与えられている。彼は優れた道士で王重陽の高弟7人を「七真人」というが、長春真人はその中の筆頭と目されている。長春真人は師王重陽の後を継いで布教活動を行なっていたが、その人物をチンギス・ハーンが招聘したのである。

チンギス・ハーンは不老長寿の薬を得るために当時道士として有名であった長春真人を招聘したのである。しかし招聘された時点で長春真人は74歳。彼は山東半島に住んでおりチンギス・ハーンの宿営地まで約1万4千キロもの旅は不可能に思われたが、彼はその招きに応じ西暦1221年弟子18人を連れてチンギス・ハーンのもとに向かったのである。そして彼はその翌年、ヒンドゥークシュ山脈の麓、現在のアフガニスタンにあったチンギス・ハーンの宿営地にたどり着き、そこでチンギス・ハーンと面会することになるのである。

チンギス・ハーンは長春真人に会うと不老長寿の薬について尋ねた。それに対して長春真人は臆することなくそのような薬は無く、養生の法ならあることを答えている。しかしその答えを聞いたチンギス・ハーンは怒ることなく長春真人を厚く遇し、その教えによく耳を傾けたという。長春真人は西暦1223年に帰途につくがチンギス・ハーンから賦税の免除や道教の統轄権という特権を与えられ、全真教は興隆していくこととなる。チンギス・ハーンと長春真人は西暦1227年7月にともに亡くなっている。
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         <category>20チンギス・ハーンと長春真人</category>
         <pubDate>Wed, 18 Oct 2006 19:24:07 +0900</pubDate>
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         <title>チンギス・ハーンの妃たち</title>
         <description>チンギス・ハーンには数多くの后妃がおり、『元史』では39人を名前入りで伝えている。その中にあって彼には4人の特別な后妃がいた。

正后コンギラト部のボルテ、メルキト部のクラン（フラン）、タタル部のイェスイ、イェスケンの4人である。イェスイとイェスケンは実の姉妹であった。

チンギス・ハーンは彼女たちに資産の管理と運用や後宮の管理を任せていた。またチンギス・ハーンが遠征するときには毎回１人の后妃が選ばれて付き添ったのである。
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         <category>15チンギスハーンの妃たちと子供</category>
         <pubDate>Wed, 18 Oct 2006 19:22:55 +0900</pubDate>
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         <title>チンギス・ハーンの子どもたち</title>
         <description>チンギス・ハーンには正后ボルテとの間にジュチ（ジョチ）、チャガタイ、オゴデイ（オゴタイ、ウゲデイ）、トゥルイ（トルイ）という4人の兄弟、さらにコジン・ベキ、アラカ・ベキ、アル・アルトゥンといった姉妹たちがいた。

またクラン妃との間にコルゲン（クルゲン）という息子がいたことも有名である。チンギス・ハーンの息子たちはそれぞれ領地を治め、外征にあたっては一軍を率い父親をよく助けた。また娘たちは父親の命で政略結婚の道具として用いられている。
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         <category>15チンギスハーンの妃たちと子供</category>
         <pubDate>Wed, 18 Oct 2006 19:22:18 +0900</pubDate>
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         <title>ジュチ</title>
         <description>ジュチ（ジョチ）はチンギス・ハーンの長男である。しかしその出生に関して疑いを受け、「客人」「旅人」を意味するジュチと名付けられている。

ジュチは若い頃から父に従ってモンゴル高原を転戦し、父の統一事業を大いに助けた。その後西方遠征に活躍するが、西暦1225年病によって父チンギス・ハーンに先立って亡くなっている。

チンギス・ハーンは出生に疑いをもたれているジュチをあくまで自分の長男として扱っていたという。ヨーロッパ遠征で有名なバトゥはこのジュチの息子である。

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         <category>15チンギスハーンの妃たちと子供</category>
         <pubDate>Wed, 18 Oct 2006 19:21:45 +0900</pubDate>
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         <title>チャガタイ</title>
         <description>チンギス・ハーンの次男はこのチャガタイである。気性が激しく、兄ジュチとたびたび衝突し険悪な関係にあった。

『元朝秘史』によるとあるときチャガタイは出生に疑惑をもたれている兄ジュチに向かってメルキトの子と罵ったという。その性格が災いしてチンギス・ハーンの後継者とはなれなかったが、チンギス・ハーンからモンゴル帝国の法律の管理を任されている。

チャガタイは４兄弟の中でもとりわけ長命を保ち、最後の生き残りとして西暦1242年に亡くなっている。
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         <category>15チンギスハーンの妃たちと子供</category>
         <pubDate>Wed, 18 Oct 2006 19:21:07 +0900</pubDate>
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         <title>『東方見聞録』</title>
         <description>『東方見聞録』はマルコ・ポーロが元へ行って見聞きしたことの記録である。マルコ・ポーロが元から帰還した後ジェノヴァで虜囚となり、獄中で知り合ったルスティケロに後述したものがこの『東方見聞録』である。

マルコ・ポーロは西暦1271年に元の上都に至りクビライ（フビライ）・ハーンに謁見し、それから約20年にわたって元に仕え中国各地を回ったという。『東方見聞録』は日本のことをジパングとして西洋に紹介した本としても有名である。
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         <category>35チンギス・ハーンに関する同時代史料</category>
         <pubDate>Wed, 18 Oct 2006 19:20:56 +0900</pubDate>
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         <title>オゴデイ</title>
         <description>オゴデイ（ウゲデイ）はチンギス・ハーンの三男で、モンゴル帝国第二代ハーンとして父の後を継いだのは彼である。

オゴデイは温和な人物であり、不仲であったジュチ、チャガタイという2人の兄双方と仲がよく、一族に和をもたらす人物とチンギス・ハーンに見込まれていたため後継者として選ばれたという。

即位後は鎮海や耶律楚材を重用して内政を整え、金やヨーロッパに出兵して父から引き継いだ国を拡大することに成功した。彼は西暦1241年に過度の飲酒がたたって健康を害し死去している。
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         <category>15チンギスハーンの妃たちと子供</category>
         <pubDate>Wed, 18 Oct 2006 19:20:33 +0900</pubDate>
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