チンギス・ハーンの後継者問題(2)
ホラズム遠征前にはオゴデイと決したチンギス・ハーンの後継者問題であるが、実際にチンギス・ハーンが死去すると状況は微妙なものとなる。モンゴル民族には長子ではなく末子が家督を相続するという風習があったからである。その風習に従い末子トゥルイがチンギス・ハーンの持っていた領土と全軍を引き継いでいた。このときトゥルイが引き継いだ軍隊は全モンゴル軍の8割弱にあたるほどの兵力であり、さらに監国として政務を代行しており、トゥルイが後継者として有力視されるようになっていたのである。
そのような中で西暦1229年秋、後継者を決めるクリルタイが開かれた。まず大宴会が行なわれた後、本題である後継者を決める話し合いが行なわれた。その席でオゴデイは謙譲の美徳を示すためのポーズとしてかトゥルイの軍事力を警戒してかチンギス・ハーンの後継者となることを辞退している。『元史』によるとこのとき耶律楚材がチャガタイやトゥルイを説いてチンギス・ハーン在世中に決まっていた通りオゴデイを後継者とするように促したことになっている。それを受けてチャガタイがオゴデイを指示し後継者はオゴデイと正式に決まったのである。
44歳のオゴデイはついに大モンゴル帝国第2代君主として即位した。オゴデイが即位するとトゥルイは自らの持っていた大軍団の指揮権をオゴデイに譲り、自分はその配下の一将に甘んじている。トゥルイは金を破る大功を立てた後40代の若さで急死してしまうが、『元朝秘史』、『集史』、『元史』などの史料は、トゥルイが病となったオゴデイの身代わりとして死んだというエピソードを伝えている。オゴデイの死後はオゴデイの息子グユクが後を継ぐが、その後はモンケ、クビライとトゥルイの息子が君主となっている。